モン語とモン文字

伝統文化

モン語について

 モン(Hmong)の人たちは、お互いよく話をする。親しい間柄や、親、きょうだい、親戚の間だけでなく、初対面の見ず知らずのモンの人同士でも、時間が許す限り、ずっと話をしている。

 何の話をしているのだろうかと興味深くもあるが、何の話をしていたのか?とたずねると、まぁ本当にたわいのない話だったりする。
 こんなに延々と話していたのに、“えっ?!それだけ?!”と思うようなこともしばしば…。
 たわいのない会話の苦手な私としては、言葉がわからないというのは、こういう時、ちょっと好都合であったりする。
 タイやラオス、中国のモン(Hmong)族の親戚を訪ねる旅に同行させてもらった時などは、モン語がわからないということを理由に、ただただそばに座り、外から様子をじっくりと観察することができる。

 それは、よい点ではあるのだが、その”たわいのない会話”の中にこそ、本当に知りたいことが混ざっていることも多いのがやっかいな点である。
 もちろん、聞いたまま話の内容がわかる方が、何倍も何十倍も、情報が入ってくるわけで、何時間もの会話の内容をあとで聞いてみると、例えば、”市場でタケノコを買ってきた話だよ”と、一言で片づけられてしまった時に、”いや~、もっと長く話してたよね〜?!布の話とかしてたよね〜?!”ということもあり、もどかしくてしょうがないことも多い。

言葉はツール、道具としてのタイ語

 『織り人(Orijin)』では、モン(Hmong)族の手しごとに限っているわけではなく、タイの他の民族、カレン族やミエン族などの人たちも関わりがあるので、その共通語としてはタイ語ということになり、まずはタイ語でのやり取りで始めるしかなかった。
 しかし最近、オリジナル製品づくりを進めるにあたって、モン(Hmong)の人たちと過ごす時間が多くなると、モン語がわかるかどうかで、入ってくる情報量がまったく違い、いろいろなことの理解度が違うことを痛感し、言葉の果たす役割は大きいとつくづく感じる。

 初めの頃は、タイ語というのがお互いを理解するためのツール(道具)であったが、それが今は、お互いにとって母語ではないタイ語を介すやり取りは、なんとなく他人行儀というか、本当じゃないような感覚になっている。

 やはり、少しでもモン(Hmong)語を理解しなければ始まらない…と、モン語の辞書(単語集)を買った。
 これを買ったのは、実は3年以上も前のことで、日本語で出版されているモン(Hmong)語についての本は、まだまだ細かい文法の解説があるわけではなく、ある程度のモン語を理解していないと使いこなせず、そのまま手元に置いておくだけとなっていた。
 その本を引っ張り出し、最近やっと、“これはモン(Hmong)語で何というの?”という質問を繰り返しながら、少しずつモン語の単語を増やしているところである。

 私自身は、言葉のセンスはないのだが、言葉に対しては興味津々で、いろいろな言語のさわりだけはかじってみたりしている。
 ほとんどの言葉そのものは、ほぼモノにならないのだが、それぞれの言葉の成り立ちや歴史的背景などを知ることは非常におもしろく、モン(Hmong)語についても同様に、モン語とモン文字の成り立ちの背景はとても興味深いものがある。

中国発祥のモン文字

 モン(Hmong)の人たちは、もともと固有の文字をもたなかったと言われている。

 モン(Hmong)族の祖先と考えられる苗(ミャオ)族は、中国の貴州省を中心に、湖南省、四川省、雲南省など中国西南部と、インドシナ半島のベトナム、ラオス、タイに居住しており、それぞれの分類は言語分類に従い、それぞれ「人」を意味する自称から、大きく下記の3つにわけられている。

1.コ・ション(クースワン)語 (湘西[しょうせい]方言)
2.フム(ムウ/モー)語 (黔東[けんとう]方言)
3.フモン(モン/ミャオ)語 (川黔滇[せんけんてん]方言)

 まず初めの文字は、1905年に、宣教師サミュエル・ポラードが、中国貴州省の苗族の支援をするためにつくったといわれる中国の苗(ミャオ)文字だと考えられているが、これは世界全土の苗族およびモン(Hmong)族が話す言葉を網羅していなかったため、ほとんど広まらなかったという。

 そして、1949年の中華人民共和国の成立以降、1956年に上記3方言それぞれに、ラテン式苗文字案を作ることが決定され、その後改正されながら、1981年に黔東方言、1983年に湘西方言が確定し、2000年以降に、モンジュア(青モン)声調を基に作られた川黔滇方言*が、四川省、貴州省、雲南省からラオス北部まで広く使われるようになっているという。
*川(四川)、黔(貴州)、滇(雲南)を意味する。

 それ以前から、「板塘苗文」「古丈苗文」「老寨苗文」など変形漢字をもちいたものも存在していたという記録もあり、「老寨苗文」においては、苗歌劇団の人たちが苗歌を記録し、苗歌劇の脚本を編集するために創作したもので、脚本や歌本の中では今でも見られるというが、現在は、ほとんどつかわれていないようである。

ラオス発祥のモン(Hmong)文字

 ラオスでは、中国での苗語の流れとは別に、1953年に、西洋のキリスト教宣教師や人類学者、言語学者とモン族の男性数人により、新しいモン文字が作られ、「RPAシステム」(Romanized Popular Alphabet)として知られるようになり、タイやラオス国内の他に、ラオス難民の第三国定住などに伴い、アメリカやヨーロッパなどに住むモン(Hmong)の人たちの間でも広く使われるようになっている。

 タイに住むラオス難民だったモン(Hmong)の人たちは、こちらのラオス発祥のモン文字の方をつかっているが、モン・ダオ(白モン)とモン・ンジュア(青モン)とでは、発音が異なるため、表記の方法はだいぶ異なるようである。

モン(Hmong)文字の母「ション・ルー・ヤング」

 現在は、「中国発祥のモン文字」と「ラオス発祥のモン文字」の2大モン文字が主であるが、モンの文字といった時に、ベトナム国境周辺のラオス北部の農民「ション・ルー・ヤング(Shong Lue Yang)」が神の啓示により、1959年に作ったとされる「パハウ・フモン文字(Phajhauj Hmoob)」を忘れてはいけない。

難民キャンプ跡地に残るパハウ・フモン語で書かれた石碑

 彼自身は、彼の影響の拡大を恐れる政府によって1971年に暗殺され、彼の文字もあまり普及はしなかったのだが、東南アジアのモン(Hmong)の人たちの間では、「モン文字開発の母」と呼ばれ、尊敬され今でも語り継がれている。

 モン(Hmong)刺繍の文様は、この「パハウ・フモン文字」から作られているというような話も聞いたことがあるが、この文字は、特別に興味があって勉強したという人でなければ読めないため、ほとんどのモンの人たちは読むことはできないようだ。

 「パハウ・フモン文字」の存在は知っていたが、初めてその文字が実際につかわれているところを見たのは、タイのラオス難民キャンプ跡地を訪ねた時だった。
 跡地には、当時の建物はほとんど残されていなかったが、敷地のはずれに柵に囲まれた銅像や石碑がいくつも残されている場所があった。

難民キャンプ内のモン(Hmong)の人たちにとっての神聖な場所は、大木に見守られ、今もきれいに維持されていた。

 その時、同行してくれたのは、その難民キャンプで生活していたことのあるモン(Hmong)の方たちであったが、当時には見られなかった仏塔や銅像などが建っていたり、その場所の記憶はあまりはっきりしないようであったが、当時、モン(Hmong)の人たちにとって、重要な儀式を執り行ったり、神聖な場所として設けられたところだったようである。
 今でも、この場所だけは、訪問者のために、近隣のご夫婦が管理してくださっているという。

「パハウ・フモン語」は、多くのモン(Hmong)の人たちは読むことができないが今でも大事にされている。

 その敷地の入り口に、「パハウ・フモン文字」で書かれた石碑が立てられていた。
 彼らも、読むことはできず内容はわからないのだが、建立された年はわからないが、1975-90年という年号がみられるので、当時、避難してきたモン(Hmong)の人たちの難民キャンプでの生活を見届けていた場所だったということが記されているに違いない。
 *現在、「パハウ・フモン文字」がわかる人を探してもらっている。

 モン(Hmong)の人たちにとっての神聖な場所に立てられた石碑に書かれた「パハウ・フモン文字」を見ると、モンの人たちにとって、この文字は、今現在、日常生活でつかっているアルファベット表記の「RPAシステム」の文字とは違い、特別なものとして大切にされていることが伝わってくる。

参考ホームページ

下記のホームページは、言葉に関して、とても充実していて、いつも参考にさせていただいています。

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