自分で刺繍した初めての民族衣装
モン(Hmong)の刺繍やアップリケだけでなく、ミエン族の刺繍やカレン族の織りなどの手しごとの文化は、“母から娘へ代々受け継がれるもの”であるとよく表現される。
私も時々、そういう風に表現する時があるが、でも実は、それはちょっと違うのではないかなと思うこともある。
もちろん、母親が娘へ刺繍のやり方を教えたり、ということはあるのだけれど、実際は、そうではない場合も多いのではないかと思っているのである。
写真の彼女は、モン(Hmong)の刺繍が得意で、新しい文様を考えるのも大好きなので、いつも楽しそうに考えながら刺繍をしてくれている。
そんな彼女が着ているのは、彼女自身が初めて刺繍した民族衣装。
モン(Hmong)の人たちは、あまり昔の衣装を残しておかないのだが、これだけは大事にとってあったという。
この衣装の刺繍をしたのは、8歳か9歳くらいの時だったという。
難民キャンプからタイ北部のラオス国境近くの山奥の村に移住した後のことだ。
彼女のお母さんは、その日暮らしていくためのお金を稼ぐために、ほうき草の栽培と収穫に追われ、刺繍やアップリケをする余裕はなかったという。
そんな時に、お守を兼ねて面倒をみてくれていた当時12歳くらいの村のおねえさんが、刺繍を教えてくれたのだそう。
彼女のお母さん自身は、若い頃はラオスの森の中で身を隠しながらの生活で、刺繍やアップリケをする余裕などなく、皮肉なことに、大好きなアップリケをする時間ができたのは、タイの難民キャンプにたどり着いてからだったという。
もともと、モン(Hmong)伝統のリバースアップリケが得意ではあったけれども、難民キャンプの中で、先に避難していた知り合いに、新しい模様を教えてもらいながら、めきめきとその腕前をあげていったようである。
難民キャンプで作り上げられた伝統
モン(Hmong)族の伝統文化には、共通する部分も大きいが、中国南部のモン、ラオスのモン、タイのモン、そして難民キャンプでの生活を経験しているモンの人たちとでは、その模様や技法、素材など、手しごと文化の中では異なる部分も大きい。
『織り人(Orijin)』の刺繍やアップリケは、ほとんどが難民キャンプを経験している人たちのもので、“モン伝統の”と表現することも、実はちょっと違っているのかなと思うこともある。
こうなると、“伝統”とはどういうものを指すのかということになるが、それでは『織り人(Orijin)』の刺繍やアップリケがモン伝統のものではないかというと、難民キャンプ内で作り上げられた要素は非常に大きいが、文様のデザインであったり、好む色合いであったり、先祖代々、受け継いできている部分もないとは言えない。
日本でも、伝統技術や伝統芸能などの中では、世襲であったり、代々受け継がれるものであるという考え方は、今もなおあるとは思うが、昔も今も、見て覚える世界で代々受け継がれてきた技術だけではなく、そこには、その人個人の意思というか、興味関心といった要素も、実は大きいのではないかと思っている。
目に見える部分も目に見ない部分も含めて、変化しながらも繰り返され、続いていくもの、それを伝統と呼ぶのではないかと思っている。
母親ではなく、近所のおねえさんに刺繍を教えてもらった彼女の娘さんは、日々、刺繍をしているお母さんを見て、刺繍屋さんごっこをしている。そして、将来は、お母さんと一緒に、『織り人(Orijin)』のバッグを作るのだと言っている。
これは責任重大!とプレッシャーを感じる日々である。
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