モン族の刺繍いろいろ
モン(Hmong)族の人たちは刺繍を得意としているが、刺繍といっても、✕を繰り返すクロスステッチ刺繍、鎖のようなチェーン刺繍、アップリケのまわりの小さなお花のワンポイント刺繍などさまざま。 その中で、モン(Hmong)族のライフシーン刺繍では、下描きの絵を埋めるようなサテンステッチが使われ、少し盛り上がりのある刺繍で、立体的な生き生きとした仕上がりになっている。
モン族の歴史とライフシーン刺繍
もともとは、自分たちの民族衣装を装飾するための刺繍だったが、ライフシーン刺繍と呼ばれるモン(Hmong)族の生活のワンシーンの図柄を刺繍するようになったのは、1970年代後半から1980年代にかけて、タイ国境の難民キャンプ内で作られるようになってからといわれている。
タイのラオス国境沿いには、当時、ラオスから逃れてきた人たちを収容するために、5ヶ所の難民キャンプがつくられ、そのうちのひとつ「バンビナイ難民キャンプ」は、ほとんどがモン(Hmong)族の人たちだった。
難民キャンプのまわりには鉄条網がはりめぐらされ、外に出ることは許されず、畑仕事や狩りなどもできず、労働で賃金を得ることも許されなかったため、多くのモンの男性は、何もすることがない日々を送っていた。
当時、難民キャンプ内には、海外からの非営利組織(NGO)や宣教師たちが数多く支援に入っており、そうした人たちが、モンの女性たちがつくる布をタイ国内やアメリカ、ヨーロッパなどで売れるように働きかけ、販路を広げていった。
得意の刺繍やアップリケの布が売れるようになると、女性たちは、ほとんどの時間を刺繍やアップリケをして過ごすようになっていった。
モン(Hmong)社会では、男性と女性の役割がはっきりと分かれており、伝統的な生活の中では、男性が刺繍やアップリケなどの手しごとに関わることは一切ないが、現金収入を得る手段がほとんどない難民キャンプでは、女性たちがつくる布だけが頼りだという状況の中で、あり余る時間をもてあましていた一部のモンの男性の中には、女性たちとともに”売るための布”づくりをするようになった人たちもいたという。
そうして製作の分業化がおこり、主に、ライフシーン刺繍の下絵は男性が描いていたという。
ライフシーン刺繍の下絵と刺繍
ライフシーン刺繍の下絵は、野菜の収穫や稲の刈り入れ、脱穀の様子、ロバに荷物を積み畑から帰る様子など、モン(Hmong)族の村での生活のワンシーンが描かれることが多いが、その他にも、モン族に古くから伝わる伝説や民話などが描かれることもある。
ライフシーン刺繍を代表するモン族の移動の歴史の図柄
当時、難民キャンプで作られたライフシーン刺繍の図柄は、モン(Hmong)族の長く険しい移動の歴史を描いたものが多くあった。
中国南部を起源とするラオスのモン族の人たちが戦乱に巻き込まれ、タイの難民キャンプにたどり着き、そして、アメリカなど第三国へ移住していくまでの過程を描いたもので、村を焼かれ、命からがらメコン川を渡り、タイへ逃れてくる様子なども描かれている。
小さな正方形のものから、大きな横長のものまで、いろいろなサイズのライフシーン刺繍布がつくられ、そのまわりに布で枠をつくりタペストリーとして販売されていた。
この布の左上から右上へ、迫害を逃れて中国から南下していき、ラオスの山での平穏な生活、戦火を逃れるため、大きな荷物を背負い、ラオスのローンチェンから飛行機に乗り避難する様子が描かれている。
そして、右下から左下へ、ローンチェンからの飛行機に乗れず、バスや徒歩でタイ国境を目指す途中、共産兵に銃撃され、村を焼かれ、命からがらタイ国境のメコン川へたどり着き、小さな筏に乗り、筏に乗り切れない人たちは、おぼれないよう竹を脇にはさみ、泳いで川を渡っていった。命からがら、バンビナイ難民キャンプにたどり着き、第三国定住へ向けての審査を受け、飛行機でバンコクを出発していく様子が描かれている。
ライフシーン刺繍は、モン(Hmong)族の人たちにとって伝統的なものではなく、難民キャンプの中で、”売りもの”として作られていたもので、こうしたセンセーショナルな図柄は、人々の関心を得るために欠かせないものだったと考えられる。
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